「職人ことば」
今どきはスーツ屋と言っても店頭の小売りスタッフをイメージすることが多くなった。
高級なスーツは職人が作るオーダーメイドであり、安価な既製服を「吊るし」と称して
区別していたのは遠い昔の話だ。職人、技術者がスーツを作るときに用いる隠語と
いうか職人用語にはキレの良さをも感じるのだが、どこかしら物騒で品が無いと言
われても仕方のない響きがある。余計なシワを取り、立体化する「クセ取り」や、アイ
ロンワークで生地を変形させる「殺し」などが代表である。
次に少々際どくなるが、年を重ねた殿方は聞いたことがあるかもしれない。金ぐせ
(かねぐせではない)と言う言葉があるが、あまり使われなくなったようだ。既製のズ
ボンだけでなく、オーダーでもあまり用いなくなった。今のズボンの前身は左右対称
に作られていて、金ぐせがつけられていないのだ。
上衣と同じく男合わせ(男前)の場合、フロントファスナー部分は左上前、つまり左側
が前(上)になる。利き腕に関わらず右手で出し入れがしやすい左側にモノを収納す
ることが多くなる。するとズボンの左足側は右側に比べて納めるべき体積が増す。
相対的には右側が若干ユルく感じる結果となる。そこでファスナーの下あたりを1cm
程度カットして右側を小さくする。これが金ぐせである。それをやらないと極左派?の
人のズボンは、右側の余りが後中心(ヒップ)の右にタルミとなって現れる。右のピス
ポケット(尻ポケット)にハンカチを入れる人が多い気がする。無意識な習慣なのだろ
うが、理にかなっていることになる。右派、左派、中間派と色々あるが、昔の職人は
それとなく見極めていたのだろう。フィット感の強い下着の出現も手伝って、中間派
が多くなり、金ぐせも不要になってきたのである。
月刊はかた12月号 「スーツのはなし」 笹川正章 より