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ファッショニスタ(服好き)が陥りやすい謎のホールがある。
我々スーツ屋は、それブリティッシュだ、クラシコイタリアだ、アメリカンだと新しい提案には
目を向ける習慣を持っているが、トレンドとは別のクラシックという要素が常にスーツを
下支えしているのも事実だ。
クラシックの原義は、クラス意識とかいう時のソレで、普遍的で最も良い物というニュアンスだ。
しかし、これが古典とか昔からある良い物という意味とごっちゃになっている。
スーツに対する造詣を深めようとすると、古い映画のシーンが取り沙汰されることが多い。
ヒッチコックの映画でお馴染みのジェイムズスチュアートやローマの休日のグレゴリーペックの
太いパンツ。007のショーンコネリー時代のボンドスーツ。俳優のキャラも立っていて確かに
格好いい。しかし、よくよく考えてみると、その時代を象徴するスーツのフォルムであるだけの
ことだ。もし今、同じ配役でリメイクするなら、何らかのエッセンスは残したとしても当時のままの
スーツにはならないだろう。作り手も着手も勘違いし、当時のスーツを再現しようとしてレトロ
おたく化してしまうのだ。
蓼食う虫も好き好きの言葉通りだが、そのホールに落ちてしまうと今という環境が見えなくなる。
さらに重篤化すると映画から画像を得て、この通りに作ってくれとやって来る。細かいディテール
の話ばかりで木を見て森を見ず状態なのだが、「こだわり」というエクスキューズで変態領域へ
突入していく。
私からすると単なる「コスプレ」である。
量産型のプラスティッキースーツが市場を席巻すると、古典的なスーツに有機的なインスピレー
ションを感じるのは正しい感情かもしれない。
数十年後のファッショニスタ達が、今世紀初頭(現在)のスーツは良かったとレトロ談義するのは
必定だろう。
月刊 はかた3月号 「スーツのななし」 gentry complex 笹川正章 より